可部夢街道街づくりの会


可部のまちなみ

可部のまちなみ

可部は広島城のある広島市街地より15kmほど北東へのぼった場所にあります。江戸時代の可部は、山陰地方と広島城下を結ぶ交通の要所でした。可部地区には今でもその当時の古い街並みが残っており、古民家や商店などの古い建物を見る事ができます。

可部のまちなみ見どころ

① 旭鳳酒造

慶応元年(1865)開業。銘柄は「旭鳳大吟醸」「旭鳳八反錦」「旭鳳七」ほか。店の軒下に真新しい「杉玉」が下がると新酒のじょうぞう販売ができたことを示す。2階の階段を上がると昔の麹室や表戸「蔀度(しとみと)」もあり明治の面影がある。

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② 願船坊

紫雲山円明寺と号し元亀元年(1570~1572)の建立で昔は真言宗であった。生保3年(1646)住職僧頓によって改宗された。明治12年寺合が公称となった。可部の方言、がんす言葉の石碑がある。

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③ 毘沙門堂(びしゃもんどう)

毘沙門堂は享保8年(1723)建立。本尊の毘沙門天像は厚さ12㎝の台座の上に赤鬼、青鬼を踏まえて立っている。毘沙門天は福徳財宝をもたらす神として古来より崇敬されているが、一方では仏国守護の四天王のひとりとして軍を率いて北方守護の重役を負うとされ、勇壮豪快魔軍さ迎撃の相をしている。 脇侍は左に「吉祥天禅尼子」右に「禅爾梓童子」厨子の天井に「元品窮寺御尉志(子)」、寄付募集人安佐郡可部慶安 木村弥助(明治34年(1901)5月13日)これによってこの厨子は明治34年に木村弥助なるものの尽力によって品窮寺にあったものを移したということができる。

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④ 尾又神社(おまたじんじゃ)

この地方の古名(こな)に尾又があるからそれからとったものであろう。ところの人は祇園さんと呼んでいる。中央の奥まった一段高いところに神殿があり、高さ1m幅38cmの神名を記した幣がある。京都の八坂神社と同じ「牛頭天王」である。正面中央に(奉鎮座祇園牛頭天王)その右に(安芸の国高宮郡稲田姫命)左に(於普門寺境内八王寺尊)とある。牛頭天王は本地垂迹説から天照大神の弟、荒神の素戔鳴尊と同一視されている。素戔鳴尊には五男三女の子あり。
牛頭天王は、インドの祇園精舎の守護神であった。祇園精舎は「諸行無常」と響く鐘で知られている。薬師如来の化身とも称す。7月14日の夏祭りではきゅうりをお供えしている。

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⑤ 可笑屋(旧松井家)

築150年の古民家(松井家)を再生したコミュニティサロン&喫茶「可笑屋」
コミュニティサロンでは、絵画・写真・書道の展示、コンサートなど、多様な催しが開催され、地域住民の活動拠点となっている。
町並みづくりのモデルとして、2008年にはひろしま街づくりデザイン賞を受賞した。

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⑥ 勝圓寺(しょうえんじ)

可部の折り目塚本宅前の路地を少し入ったところにある。泰峰山と号し、もともと真言宗で高松山山腹にあったが、永正11年(1514)浄土真宗に改宗、約275年後(1789)勝圓寺住職11代はすでに亡くなり、子どもは幼少で無住の寺と化し荒廃していた。諸寺の住職を歴任し寛政3年(1791)勝圓寺の住職となった大えい和上は、さまざまな手立てを打ち、盛り立て人々の心を引き入れ、法座(宗祖親鸞上人の興された他力本願・一心帰命)を持ち仏の道へと諭され、少しずつ立て直していった。境内には、古い歴史を感じる松も枝をのばしている。

木坂文左衛門(きさか ぶんざえもん)の墓
幕末維新の広島藩の財政は破局状態にあり、贋金製造で急場をしのいだ。可部年寄りで鉄問屋・鋳物業を営む南原屋木坂文左衛門が藩の内命を受けて明治元年4月から5月頃より藩の贋金製造は2歩金であったが、天保銭(当百銭)の鋳造も第1次・2次鋳造を行ったようである。
明治2年(1869)後半になると全国諸藩で贋金製造が判明したため、政府は明治3年4月29日に贋金製造につき明治2年(1869)5月の以前にかかる贋金製造事件関係者は赦免する旨の布告を発したのである。
しかし、広島藩の場合、明治2年5月以降も贋金を製造していることが発覚した。その後、弾正台の役人が岩国に出張して取り調べに当たるなど、政府の取り調べは一段と厳しくなり、明治4年2月初めに木坂文左衛門は入牢を命ぜられた。明治4年(1871)2月6日で糾弾中病気になり、明治4年(1871)2月13日付未ノ刻頃病気が悪化し、酉ノ刻に死亡した。藩の行った贋金事件の責任を一身に背負い、49歳でその生涯を閉じた。

大瀛和上(だいえいわじょう)の墓
森養哲の子として宝暦9年(1759)山県郡筒賀村に生まれる。11歳にして出家し広島報専坊、慧雲師に師事して宗学を修め、初め備後甲山町正満寺に住し、のちに可部町勝圓寺住職となった。当時宗教界の三宗難といわれる、三業帰命説が、京都西本願寺僧、智洞等によってとなえられて一世を風靡し、他力本願の真宗の協議は根本から危機に瀕した、大えい和上は親鸞教義を守り抜くために、研鑽精励、ついに三業帰命説の粉砕に立ち、僧智洞と対決、幕府の審判によって吟味され、和上修正の努力が勝利して法灯を邪宗から守ることができ、さらに真宗今日の発展の基礎を固めた。12代住職、大えい和上の墓石は勝圓寺の境内にある。信者の回向の煙は山県郡筒賀村の生誕の碑とともに絶えることがない。安芸の国が生んだ文学者頼山陽とともに仏学の大家として知られ、著書も約40巻、文化元年、江戸に病没した。年齢45歳。

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⑦ やすらぎ地蔵(半伽思惟地蔵(はんかしゆいじぞう))

片足を立て、思いをめぐらせている姿は、めずらしい。
自分の体の悪い所をなでると、気持ちがやわらぐといういわれがある。

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⑧ 森の下(上が市)八幡宮(もりのした(うわがいち)はちまんぐう)

文政2年(1819)当時、下中野村の庄屋愛祐、忠蔵の二人が藩府に出した控えによると、ご神体は一寸八分の米と伝えられている。また、安佐北区白木町三田の永井弥六先生の書かれた郷土史にもご神体は一寸八分の米と紹介されているが、現在は御鏡とお稲荷さんの2体である。お稲荷さんの方は、もともと上が市にあったのを、道路の拡張等に伴いこの宮に合祀した。この八幡宮は下の段と、境内のある上の段を12段石段でつなぎ、上と下にそれぞれ石ノ鳥居があったが、台風で倒壊し平成17年4月に下の段の鳥居だけ修復してある。

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⑨ 岩田万助(いわた まんすけ)記念碑

天保6年(1835)に当時の下中野村で生まれ、15歳の時に可部の有力商家へ奉公に出た。年若い万助は、性格は素直で勤勉、信仰心も厚く、雇い主はもとより、広く世人から信用を得ていた。明治16年(1883)に主家の3代目の当主が亡くなり、7歳の子が4代目を継いだがすぐにその子の母もなくなるという悲運に遭った。両親を失った当主は幼少で家業を相続したが、一族間に揉め事が絶えず、その商家は衰退の一途をたどっていった。万助は「先代の恩顧に報いる日は、この時以外にない」と万助は7歳の当主の後見役になって、寝食を忘れ、この家の建てなおしに尽し、危機を乗り切って再び隆盛に導いた。この功績は、明治42年(1909)になって、県知事らから表彰をうけた。一奉公人の功績に対する県知事表彰や記念碑の建立はとても珍しい。記念碑は品窮寺の境内にある。

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⑩ 品窮寺(ほんぐうじ)

品窮寺の山門は可部街道に面し、当時の面影が残っている。寺伝によれば、この寺は明応元年(1492年)に現在の地に移っており、仏護寺十二坊の一つであった。山門の前面に太鼓橋と称する石橋がある。明治四十四年にかけられたもので、当時は、ここを小川が流れていた。昭和3年の水害でこのあたりは、360戸浸水、2名死亡、牛馬多数が犠牲なり、その標柱として水害記念碑が建てられている。

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⑪ 清水清六氏の功労碑

中原村中河原、現在の大和重工の西北3町歩(297アール)の水不足は深刻で、地域農業の生産向上のため奔走し、明治12年秋、藤の森から中河原に通じる幅1m長さ300mの水路を完成した。多くは私財の投入であるが、清水清六氏は上流域の、地主の土地提供の調停斡旋によって、効果的に水路を完成させた。明治41年(1879)(清水氏没後24年)水路によって恩恵を受けてきた地主 戸田宗三郎ほか12名が清水氏の功労を長く記念し、称えるために発起。天野三兵衛氏ほか数人が世話人として協力。

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⑫ 可愛神社(えのじんじゃ)

祭神は「豊宇気毘売命」で、食物の意「宇気」を名にもつ食物の神、伊勢に祀られている天照大神の食事をつかさどる神として渡会(外宮)に祀られている。神社の神額は厳島神社の宮司の故野坂元良氏の揮毫(きごう)によるものである。

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⑬ 久保田酒造

慶応四年(1868年)創業の「久保田酒造」 創業100周年記念での高松宮殿下のお手植の松がある。
  
手造りの酒にこだわり、広島県産の酒造好適米を磨き抜き、菱形の井戸から汲み上げた仕込み水を使った「菱正宗」を味わうことができる。

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⑭ 中川醤油醸造

弘化2年(1845年)に建立当時は米問屋であった。現在の建物は、明治2年に建て替えられた建物です。雲石街道に沿って、南北棟の逗子二階建て切妻造り平入り、一階は、一部改築してありますが、二階部分は軒裏や、柱型、袖壁を漆喰塗り籠で、鉄格子虫籠窓など原型をとどめている

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⑮ 佐々木省吾(ささきしょうご)顕彰碑

天保11年(1840)医師佐々木元良の長男として生まれた。幼少より末田重邨(じゅうそん)に学び、私塾(還革舎)を設立。「知行一致(実践の学)」を旨とし、多くの人材を養成し、幕末から明治にかけて教育界に功績を残す。門下生から可部町長を多く輩出し、多くの門弟はいずれもこの地方の政治・経済・文化の興隆に貢献した。明治37年、門弟西村喜平らが発起人となり、その功績を長くたたえるため顕彰碑を明神社内に建立した。

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⑯ 明神社(みょうじんじゃ)

祭神は「市杆島姫命」で、江戸時代の初期豪商立田屋が屋敷神として厳島神社より分霊。天保6年(1835年)当時の可部の筆頭実力者であった木原屋三兵衛に帳切りし、明神像、樹木敷地一切を木原屋に移転した。そのころから屋敷神から町を挙げて祭礼をするようになった。
本殿の屋根は、唐破風と千鳥破風となっている。宮島の管弦祭に合わせて祭事を行い厳島神社のものに沿った渡海行事を行っていた。(チンチロビッツ)
狛犬は、向かって右は雄「あ」子どもを谷底へ落とす。左は雌「うん」這い上がってきた子を家の跡取りとする。力強く生き抜く子を跡取りとすることを表している。

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⑰ 鉄灯籠・舟入堀(かなどうろう・ふないりぼり)

鉄灯籠は、広島市指定重要文化財。高さは、3.13m 俗に鎌倉がたと言われ、円形の正面に奉献とあり六角面で金毘羅大権現の六文字が浮き彫りになっており、「ちがいまさかり」や「ボタンに唐獅子、唐草」などの絵模様が浮き彫りになっている。可部の鋳物師 三宅惣左衛門延政の代表作である。他の代表作に「八本松妙徳寺の梵鐘」「宮島の反橋の擬宝珠」がある。舟入堀は、約300年前の正徳3年運航の根拠地として繁栄。文政2年、町役人が藩庁に提出した文献によると、水たまり一反二歩(帆船12石(30俵)積が50艘)、発着は大正8年に廃止され、昭和26年に埋立てて公園になる。舟板は家の壁板等として利用。

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⑱ モニュメント広場

可部の発展の象徴である三大産業(鋳物・山まゆ・醸造業)を表現している。
①豊富に湧き出る良質の水は、清酒・醤油等の醸造業を栄えさせた
②江戸時代から昭和初期までのヤママユを利用した山まゆ織り(俗称「可部紬」)は2本の樫の木。
③砂鉄を利用して作られていた「鋳物」は、大羽釜・五右衛門風呂
④明治38年(1905)「可部~横川」間を日本最初のバス開通を記念したバスプレートを埋め込む。
⑤建設資金寄付者の個人・団体・企業名は、銘板として敷石にうめられている。

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⑲ 可部駅西口広場

「歴史と未来が織り成す可部駅西口広場」は地域資源で水・鋳物・町家を活かした広場を演出。
「水」・・・せせらぎ水路は太陽光発電で井戸水のくみ上げ。帆かけ舟の車止め。「屋根の塔」…大きい塔は高松山、小さい塔(風見鶏)は寺山をイメージ。長い平屋部分は縦格子を張り巡らした可部旧街道・町屋をイメージ。構内の建屋の柱、車止め、椅子は可部の鋳物工業で製作。

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